小説2話 推敲

22 同日 

その日、天界に戻った杏子の様子がいつもと違うな、とハルは思った。 

彼女の積もり重なった、哀しみだけではなく憤りも秘めているように見えた。 

 

おおかた、卒業式のことだろう。 

 

 

(この時はつらかっただろう観たいなことをハルは言ってお茶を濁す。 

俺ではだめなのか、は、次) 

 

ーーーーーーー 

 

23 (3月1×日~3月25日までの間)  

卒業式の後、杏子がハルのもとを去る一週間前の週 

 

杏子はハルのささやかな気づかいにようやく気付く。 

最初のほうハルがあまりいなかったのは、杏子のために杏子の周りの皆の生活を録画、するためだった。ということに。 

もう、ここの世界の狭間関東支部にも残れないという決断を1月にしてしまったということを悔やむ杏子。 

 

 

 

――― 

(ハルとの別れの前の週、卒業式の後のタイミングで、杏子は、先程のデバイスの映像が、ハルが杏子のために撮ったものだと気づく)(一番明確な証拠は、マシュと明美のやり取りを、ハルがいた位置からのズームと角度で見たこと) 

「誰もいないこの世界で、誰かのための歌を書くことに意味はあるのか、と思うけど」 

「誰かのために裏方に徹することは厭わない、それでその誰かが少しでも幸せになってくれるのなら」 

歯の浮くようなことを、大真面目に喋って厭わない、青年。 

「ハルくん……」 

杏子はつぶやいた。 

「ずるい、ずるいよ、そんなの…」部屋の中で、杏の声が小さくこだました。 

 

(その次に、ハルに「俺では駄目なのか…」「俺との新たな思い出では駄目なのか」と言われるシーンが入る。ここで、杏子は険しい顔をして無言だが、ハルが思っているように、「現世だけを思って心を閉ざしている」わけではなく、 

1月の上司との契約で、「マシュが合格した場合、マシュを追って西に行くと、「約束」してしまったため、それを破棄することができないから、である。ハルは契約内容まで詳細に知っているわけではないので、「今後も杏子が関東支部に残る」可能性も含んだ発言をするが、実は杏子にはもうその選択肢はない。 

(余談であるが、その直前、デバイスの件にまつわる、ハルの不器用な思い遣りに気づいて以降、杏子の中でのハルの評価はけっこう変わり、本当はこのまま関東支部に残りたいと思っていた(マシュは会えないわけだし)。しかし、契約の関係でそれはできないため、苦渋の表情をしている。(杏子のハルへの感情は恋ではない)(もちろんハルか杏子へも) 

 

 

ハル「俺じゃ、だめなのか?」 

ハル「俺と、ここであらたな想い出を作るんじゃ駄目なのか?」 

 

杏子は答えない。 

 

24 3月下旬のある日(3/25日ごろのイメージ) 

 

 

その日の前日のことである、 

夜、仕事を終えて世界の狭間、の宿にハルが戻ると、杏子が「話があるの」と神妙な顔をして出迎えた。建物の陰に隠れて姿はよく見えないが、片目が赤く光ったように感じた。ハルは、まさか、黒曜化が身体全体まで進行し、他者と交流するための自我をもう失いかけているのかと身構えたが、暗がりから出てきた彼女はそのような様子ではなく、安心した。 

 

「ハル君、いままでありがとう」 

そこから杏子は言った。 マシュを追って関西支部へ行く。「上司」の許可はとってある。そして、荷づくりは終えてあり、飛び立つのは明日、と。 

 

1月のあの日の「上司」への相談は、このことだったのだろうとハルは思った。 

 

ハルは余り驚かなかった。よかったとさえ思った。彼女の中では、彼女の愛する世界は生前のままで閉じているのだ。 

だから、彼を追いかけたい。それは、当然の反応――。 

 

ハルは優し気な目で温かく、でも他人行儀にいった。 

「向こうでも、お大事に」 

「それだけ?」 

「それだけ……って」 

杏子は、先ほどは言ってはいけないことを言ってしまったのだ、これでいいのだ、というかのように、きまり悪そうに後ろを向いて言った。 

「……うん、ごめん、なんでもない」 

 

間があった。 

「だって……」 

ハルはこの際だから、多少は意地悪だとは思うけれど、言ってしまおうと思った。 

「だって杏子は俺のこととりわけどうとも思っていないんだろ?」 

我ながら大人げないな、とハルは思った。 

 

「勘違いしないで」 

きっと杏子はハルを睨んでから、 

はっときまり悪そうに目を伏せた。 

「ハル君も、大切だよ」 

そういいながら、彼女は顔を上げる。目の端にうっすら涙がにじんでいた。彼女の黒曜化が、顔の右面まで侵蝕した。 

右目が黒く結晶化する代わりに紅く変色する。 

 

「え……」ハルは間の抜けた声を出した。驚いた。意外だった。ぽかんとする。 

「ハル君が私のために必死に動いてくれていること、護ろうとしてくれていること、知ってる」 

杏子は言った。 

「でも、私は彼への想いを止められない。黒曜化を、自分じゃ、抑えられない」 

 

ハルは、ああ、これが恋なのだと思った。 

杏子は、杏子の身に降りかかる黒曜化という災厄に対しするハルの憂慮を感じ取っていて、 

「ハルのこともすきだから」、ハルのことを安心させたいと思っている。黒曜化の進行を食い止め、癒し、元の身体に戻りたいと思っている。 

しかし、彼女は何よりもマシュに恋をしていた。 

彼の身に降りかかる新環境や美しい少女のコミットに一喜一憂し、そのたびに、彼女の身体は黒く透き通って結晶化に蝕まれていく。 

 

彼女は、そんな自分が、嫌なのだ。 

自分だけならまだいい、自分の容姿が変わるだけなら、まだいい。 

自分が苦しむだけなら、まだいい。 

 

ハル君も一緒に苦しむから、彼も共に苦しませてしまうから、嫌なのだ。 

「大切なハル君まで」傷つけてしまう。 

 

彼女はそんな自分の恋心を呪っていた。 

 

 

そのことを知ったとき、ハルは、とんでもない思い違いをしてしまったことに気づいた。 

ハルは、とんでもないことをしてしまった、と思った。 

 

いままでハルは彼女から微塵にも気にかけられていない、いわばどうでもいい存在だと思っていた。 

だからこそ無力なのだと。 

 

だから、彼の方に彼女の注意が少しでも向いて、「世界の狭間」における彼女の生活が充実して来たら、彼女の黒曜化は食い止められ、解消されるものだと信じていた。 

 

だがそれは違った。 

 

彼女は、ハルのこと「も」大切だから、辛いのだ。 

 

ハルは、自分の存在が彼女を苦しめる要因の一つになってしまっている、ということを知った。 

 

――― 

 

25 3月下旬のある日 (3/26日ごろのイメージ) 

 

マシュが関西に行く日、新幹線に乗り込もうとする姿を杏子はみていた。 

マシュが電車に乗り込み、杏子は満足したようにうなずき、世界の狭間(=天界)へ舞い戻った。 

 

ハルも少し離れたところでそんな杏子を見ていた。一連の杏子の所作を見送ってから、世界の狭間へ戻った。多分杏子が戻ってからそんなに時間は経っていないはずである。 

 

ハルが世界の狭間へ戻ると、杏子は用意をすでに終えて、世界のはざまの草原に立っていた。 

 

荷物は少ない。ちいさなバッグ一つに全て収まるぐらいの量だった。 

 

「少ないんだね」 

「うん」 

ハルは荷物の方をちらりとみる。その視線の先を説明するかのように、杏子が言う。 

「これがここに来てからの、私の、思い出。全部」 

「……俺と……」 

「ハル君と」 

杏子は笑って言った。もっとも、紅いままの右目は表情が読み取れないのだけれど。 

 

 

世界のはざまのぼんやりとした空を、明るい陽光のような黄色い光が照らす。綺麗だった。極楽浄土絵図とかの屏風絵でみるような淡い黄色い光を湛えた空だった。 

 

杏子の旅立ちを、「世界の側が」受け入れる準備が整ったのだ。 

 

「いってらっしゃい」 

「いってきます」 

 

杏子は西の方角へ向かって飛び立った。 

どことなくかよわいような、力強い、羽ばたきだった。 

 

西ではずっと無事で、あわよくば治癒して、生きて、生き続けているといいなあ。 

 

ああ、めっちゃ映画における死亡フラグだ、ハルは思った。 

 

ペールトーンの空が、ただただ綺麗だった。 

 

杏子の影が見えなくなったその頃、ハルの羽と腕の一部が、 

黒曜化した。 

 

まったく、分り易くて不便な身体だなあ、とハルは感じた。 

 

そして今日も、下界へ向かう。音楽があれば、俺は、きっと大丈夫だから。 

と、つよく、言い聞かせて。 

お茶の水へ向かった。 

 

『杏子の出会いと喪失』 

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『杏子との出会い、そして――別れ』(終)

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